ぶるぢっちゃんのウワサの町中華さんの他のレビュー
コメント
岐阜高山は
豆天狗に行ってみたんですが
こちらも良さそうです。
YMK | 2021年7月28日 08:28こんにちは^^
やっぱり岐阜のお店は行かないといけないですね。
行った時はスープ切れでしまっていたので
どこかできっと伺います。
高山も観光がてら行ってみたいです(*^-^*)
mocopapa(S852) | 2021年7月28日 16:58どもです。
登山を悪天で中止にしたときに高山に行きましたが、
とんでもなく早朝過ぎて人っ子一人いない町並みを
ゆっくり楽しんだことが有りました👌
岐阜県はRDBの地図は染まってませんが、山小屋では
食べてますよ(笑)
ラーするガッチャマン(通院中) | 2021年7月28日 17:29こんばんは。
まさごそば、名古屋に暖簾分け店があるんですが食べて無かったのは不覚でした~
豆天狗の支店はたべましたが。
最終会はどこか楽しみです。
kamepi- | 2021年7月28日 22:32こんばんは。
岐阜ってやはりあちらですか?
油っこい動物スープと、蕎麦屋のような和風出汁を
繋ぐキーワードは何なんでしょう。
としくん | 2021年7月29日 00:08おはようございます
こちらも岐阜市内の所も独特ですよね。
今の基準からするとあまり美味しくない。
新しい味に追われ廃れかけた時期もあったでしょうに。
それを守り続けて来たのですから素晴らしいですよね。
再び脚光を浴びたので、力強く後世まで続いていって欲しいですね。
あらチャン(おにぎり兄) | 2021年7月29日 10:23雅叙園好きですよ。
昨年は娘の成人式のお祝いをしました。
NORTH | 2021年7月29日 11:04こんにちは。
読み応えがありますね!
としさんも仰る様、
油こい動物スープに、
どう繋がっていくのでしょう?
おゆ | 2021年7月29日 17:40

ぶるぢっちゃんのウワサの町中華
モンゴルマン
みずみず


のぼった





明治の味を紡ぐ店 第六回 また飛騨高山篇
(ブログ連動企画)
☆ と ☆ に挟まれた箇所はボクの創作です。ご了承ください。
うーむ、ビールが沁みる。飛騨高山の有名店だが、今は客が誰もいない。ちとは寂しいけれど、コロナ禍の下だ、マスクを外して一気に飲むさ。うーん、旨い。
・・・と。それでは始めよう。まずはボクの創作からだ。
☆
・・・ほう、便利になったもんだ。高山本線が全線開通してから僅か二か月後に快速列車が走るんだものな。岐阜まで行って、そこからは東海道線で東京でも岡山でも、いやいや山陽本線の下関までも行けるんだから。俺は今日、これから、ここ富山から岐阜まで行ってな、あの店で中華そばを食うんだ。なんでもアノ店は、東京の有名な支那そば屋で修業した主人が開いたそうだ。そうそう、淺草の來々軒っていう店で修業したんだってな。
東京か・・・懐かしいなあ。俺が東京で働いていたのは、支那そば屋ではないけど、北京料理を出していたからな、芝浦、だったんだよな、店の場所は。東京って言っても広いけどな、淺草は東京一の大繁華街だからな、俺だって何度か行ったんだ。もちろん、來々軒の支那そばも喰ったが、正直、來々軒より五十番とか、淺草大勝軒のほうが客は入っていたさ。
俺はもうすぐな、高山に移ってさ、仕出し弁当屋で働く予定だけど、夜になると芸妓が腹を空かせて困っているって聞いているんだ。その娘(こ)たちのためにさ、そのうち中華そばの屋台を引こうかな、なんて思ってるんだ。その参考にしようという訳さ。それには大正末期まで大繁盛した淺草來々軒で修業したオヤジの店で喰うのがいいかなって思ってるんだ。
・・・おお。来た来た。この汽車だ。まずは高山まで行って、それから快速列車に乗り換えて岐阜駅に行くんだ。駅弁も買ったしな。さあ、出発と行こうじゃないか・・・
・・・2.26事件が勃発し世間は大きく揺れ、阿部定事件で人々はざわつき、ベルリン五輪の「前畑ガンバレ」実況に皆ラヂヲにかじりついた、この時は1936(昭和11)年、である。そしてこう呟いた男の名は、坂口 某。数年のち、飛騨高山で開いた中華そば屋を大繁盛させた男である。
(下の☆に続く)
☆
岐阜県高山市の中心部を流れる宮川。朝市が開かれるあたりで川を上から見ると、大きな鯉が数十匹ゆったりと泳いでいた。アシナヅチとテナヅチの像が向かい合わせに置かれている鍜治橋、高山陣屋と古い町並みを結ぶ朱色の中橋、大きな鳥居が建っている宮前橋など、見所がある橋も多い。また、鍜治橋より前、1933(昭和8)年架橋の筏橋というのもある。
その筏橋から脇に入った細い道沿いにこの店はある。注意しないと通り過ぎてしまうような目立たない場所だ。構えも小さく、普段なら何十人も列が出来るという店には思えない。2008年に火事で焼けて建て替えたそうだが、以前の建物はどんなだったろう?
伝承料理研究家の奥村彪生氏は、この まさごそば を含む飛騨高山のいくつかの店のスープを『そばだしそのもの』で、『このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』と書いている。それには、もしかすると、その背景には、こんなことがあったのかも知れない。
その背景とは。
軍靴の響きが日増しに大きく聞こえるようになったころ、昭和9年10月、高山本線・富山~岐阜間が全通した。翌々月、岐阜~高山間では快速列車が運行開始、同駅間を3時間で結び始めた。ちなみに、現代では同区間を走る特急ひだ号でおおよそ2時間である。90年以上も前のことであるから、当時としては相当に速かったはずだ。
もしかするとこのことが、この高山本線全通と快速列車の運行が、淺草來々軒創業当時の味を高山まで運ぶことになったではないか。つまり、このことこそ、飛騨高山の中華そばの歴史を生んだ背景・・・、それは単に、ボクの想像、推測なのだろうか?
ボクが昨年、つまり2020年の秋に、淺草來々軒のスープについて出した結論と、淺草來々軒の正統な後継店は岐阜市内のあの店だと感じた結論は、間違っていなかった。
と、思う。それはやっぱり此処 まさごそば と、岐阜市内のある店で食べたから。
此処の漆黒のスープは、えっ? と思うほど、岐阜市内のある店に似ていた。麺の食感にもその店との相似性を感じる。ただ具に関しては、それはないだろうと思う。というか、蒲鉾もないし青ネギもナシ。その代わりにメンマ、いや、シナチクが載る。つまり、具は焼豚、シナチク、葱、だけである。
ん? 淺草來々軒での支那そばは『具はシンプルなもんでしたよ。焼豚にシナチク、あとは刻み葱だけ』(注1)。まさごそばの具は岐阜市内の店ではなく、淺草來々軒と同じということか。
スープは和出汁。それは来る前から、食べる前から想像がついた。現在の店主によれば出汁素材のメインは鰹節だそう。これについては、店の先代店主などから聞き取った記録が幾つもあるから間違いない。少し甘く、それでいて醤油の存在感が強い。蕎麦だしを基にした、と言われても違和感はない。
麺は少し日本蕎麦っぽい食感。ただし、もっと近いものをあげれば、そう、それは日清食品のカッ・・・いや、やめておく。ただ、やっぱり思いを新たにするのである。著名なご当地ラーメンの中で尾道と、此処高山のラーメンが都内で見かけない理由。それはやっぱりこの食感が、かなり頼りない麺のせいではなかろうか。
・・・2021年7月、二度目の高山。前回来たとき、淺草來々軒のことなど頭の中にはなにもなかったから、この店のこともスルーした。相当混んでいる、ということが大きな理由だった。しかしこの日は、コロナ禍もあるし、時刻もまだ11時30分前ということもあってか、先客はゼロ。ただし20分後には外待ちが出来ていた。店内には三代目の店主(初代は奥方の祖父ということだが)とその奥方だろう二人体制。カウンター席は一枚板だろうか、立派なモノである。
高山ラーメンのはじまりは、此処の初代、坂口時宗氏というのだが、東京で料理修業中に麺打ちを学び、高山で屋台を開いたという説が有力だそうだ。東京の修業先は「ラーメンがなくなる日」(注2)などでは、現在、東京・目黒にある「雅叙園」だという。さらに新横浜ラーメン博物館(ラー博)のサイトでは「坂口時宗氏は、東京は芝浦にあった雅叙園で修行をしている時、中国人の作る麺料理を見て、見よう見まねで中華麺の打ち方を覚えたという」。
この記述、類似のものを含めればネット上の様々なサイトで見かけるので 、さて一体どれが「元ネタ」なのか分からない。余計なことだが、ラー博のサイトの「高山ラーメン」の記述は ? の箇所が多い。メンテナンスがされていないだけ、ということもあるし単純なミスもある。さらに裏付け取っていないと思われるところもある。
サイトの誤りを指摘する場所ではないので二つだけ挙げておく。興味のある方はのちほど見て頂きたい。特に一つ目はちょっと失礼な気もするので・・・
一つ目。初代・坂口時宗氏1914(大正3)年前後の生まれということのようだし、2010年の朝日新聞の記事を読むと・・・
ここである。http://www.asahi.com/travel/bridge/TKY201003110245.html
二つ目。『昭和13年、当時の花街を引いて歩く屋台があった。屋台を引く坂口時宗氏は、昼は高級料亭の金亀館で腕を振るう一流の板前であった』そうだ。一般的に、料亭の板前が、店が引けた後、他の店から出てきた芸妓のために中華そばを作るというのは時間的に少々無理がある気もしたので調べると、1938(昭和13)年当時“金亀館(きんきかん)”なる料亭は高山駅付近に存在しなかった。同屋号の店は他にあったかも知れないので誤りと断定する気はない。しかし金亀館の前身である割烹旅館金亀樓なる店は、その四年前に仕出し弁当屋に業態変更したとの記述がある(現存する高山の仕出し弁当・金亀館公式サイトより)。
さて、雅叙園の創業は1928(昭和3)年、東京、芝浦でのことである。雅叙園の公式サイトによれば、当時は『本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭』『純日本式料亭「芝浦雅叙園」』であった。日本料理を中心に、北京料理も出す高級料亭であったのだ。そして『より多くの人々に本格的な料理を気軽に食べていただくため、1931年(昭和6年)庶民や家族連れのお客様が気軽に入れる料亭として目黒の地に誕生しました』。ボクはこの文脈からして、当初は、雅叙園は芝浦の店を閉じて目黒の移ったものと解釈していた。だから坂口時宗氏が麺打ちを覚えたのは、超高級料亭だった“芝浦時代”ではなく、多少なりとも庶民向けとなった“目黒時代”ではないかと思っていたのだ。しかし、そうではなかったことに最近気づいた。というより、調べて分かった。
まずは”目黒雅叙園“であるが、昭和6年の開業当時は”支那料理屋“であったことは間違いない。たとえば、1937(昭和12)年12月発行の「東京・城南職業別電話名鑑. 昭和12年10月現在」に『支那料理業 雅叙園 細川力蔵」の記載がある(注3)。一方、閉じたと勘違いしていた芝浦の雅叙園は、目黒で開業したあとも芝浦で店を営業していた。1939(昭和14)12月30日発行「第七回東京商工名鑑」(東京市役所・編集発行)掲載の雅叙園広告ではこんな表記をしている。写真を貼れないのが残念だが(近日公開のボクのブログでは貼っている)、広告の縁模様は、なんとラーメンの丼でよく見かける雷紋(稲妻紋)である。
御結婚・御法事・御宴会 神殿完備二ヵ所
豪壮華麗・天下一
北京料理 日本料理 目黒雅叙園
御結婚・御法事・御宴会
御家族連れの御会食に
北京料理 芝浦雅叙園
芝浦の店を閉じた時期は不明なるも、『少なくとも1940(昭和15)年までは営業していた』(注4)ようである。
さて、富山出身の坂口時宗氏は、東京の雅叙園や京都などで経験を積んだあと、高山に移り中華そばの屋台を引くようになる。時宗氏はやがて出征するも、無事帰還。そして、戦後高山に戻って店を開くことになる。それがこのまさごそば、である。時宗氏の過去を探っても、中華そばとのかかわりは記録を見る限りでは、東京・芝浦時代の雅叙園しか接点がない。ただし、先にも触れたが、芝浦時代の雅叙園は北京料理を出しつつも本質は『純日本式料亭「芝浦雅叙園」』であった。目黒での開業後も芝浦の店は“北京料理”を謳っていた。淺草來々軒はいうまでもなく広東料理店の店であったから、來々軒と時宗氏の接点はなさそうである。
しかし。何度か書いたが、伝承料理研究家の奥村彪生氏 は、著書「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」(注5)の中でこう書いている。ただし、根拠は示していない。
『飛騨高山の 豆天狗 本店 や まさごそば のスープもそばだしそのものでした。このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』。
まさごそばの創業は屋台時代の昭和13年。その当時営業していた東京の支那そば屋はいくつもあるわけだが、敢えてここで“東京の支那そば”と書かれたのには、おそらく淺草來々軒が念頭にあったことだろう。著書の中でまさごそばに触れたのは『第六章 大正時代に生まれた日本の「ラーメン」』であり、同じ著書の中、同じ第六章にて数ページを割いた東京の店は、淺草來々軒以外にない。なれば、淺草來々軒と坂口時宗氏はどこかでつながっていたはずだ。
だとしたら。
冒頭の坂口 某 のつぶやきは、ボクの創作ではあるけれど。そして次もボクの想像ではあるけれど。こんなことが起きていたかもしれない、のである。
☆
坂口 某 が、富山駅でつぶやいた頃から遡ること20年弱。そう、時は1917(大正6)年である。場所は、のちに日本の表玄関というべき駅に成長する東京駅(注6)。ただし、この時点ではまだ開業して2年しか経っていなかった・・・
「旦那様、どうぞお元気で。お店の更なるご繁盛、心から祈っております」「おう。お前も人の店の心配なんぞするより、自分のことを心配せい。くれぐれも身体だけは気を付けろ。支那蕎麦の店をやるのには、身体もキツイからな」。
☆
続く
次回、ようやく、最終回・・・
(注1 淺草來々軒の具の構成 「にっぽんラーメン物語」=小菅桂子・著、駸々堂、1987年11月刊=より、淺草來々軒三代目店主・尾崎一郎氏の述懐として)
(注2 「ラーメンがなくなる日」 岩岡洋志。著、主婦の友社、2010年10月刊)
(注3 目黒に移った当時の雅叙園は支那料理屋だった 「東京・城南職業別電話名鑑 昭和12年10月現在」大東京通信社、1939(昭和12)年12月刊、国立国会図書館デジタルコレクション、などより)
(注4 芝浦雅叙園閉業時期 『少なくとも1940(昭和15)年までは営業していたようである』とは、三井住友トラスト不動産公式サイト「写真でひもとく街のなりたち 東京都・芝(田町)」より。
https://smtrc.jp/town-archives/city/shiba/p07.html)
(注5 奥村彪生氏の著書 「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」。安藤百福・監修、フーディアム・コミニュケーション。1998年6月刊。のち加筆の上改題。「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」。角川ソフィア文庫、2017年11月刊。
(注6 開業してまだ2年の東京駅 東京駅の開業は1914(大正3)年12月20日で、東海道線の起点となった)。