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「ワンタンメン(730円)」@中華 西洋 料理 来々軒の写真淺草來々軒にまつわる八つの物語 其ノ弐 「屋号」

 こういうラーメンが喰いたいんだよな、ボクは。

 スープは食べ慣れたようなモノ、麺も特徴がない縮れ、脂身の少ないチャーシューと葱。挽肉がちょっと入ったワンタン。どこにでもあるような、いつでも食べられそうな、ワンタンメン。けれど、こういうのが今はなかなか食べられない。相当意識して店をえらばないとありつけない。ラーメンの進化はまだまだ過程だけれど、置き去りにしてしまったものもあって、いずれそれらは歴史の中に埋もれていく。そして、気が付いたら、周りからすっかり消えてしまった・・・そんなことのないように、ボクはだから町中華。

 ・・・外に洩れる香しいにほい。洒落た今どきのラーメン店からはもう漂ってこない、焦げた油の香りは、妙に鼻腔をくすぐって来る。客はいないだろう店の前で躊躇することはない。ちと重い扉を手で開けば、いらっしゃい、と声が掛かる。おかみさんだろうか、かかって来たであろう電話に向かって「もう四組待ってるのよ。だいぶ時間がかかるけどいいかしら」。そう、此処は出前もしている。それに町中華“三種の神器”オムライス、カツライス(カツ丼)、カレーライスもある、此処はそうだよ、西支料理店。これもいろいろな街角から消えていっている料理店。

 その歴史は古く、遠く大正時代に遡る。東京で爆発的に増えていた中華料理店を模倣した西洋料理店が中華料理を出し始めた。ただそれらは不味いと評判で、結果的に中華ブームは昭和に入って衰えていくのだが、生き残った店のいくつかが、こうして令和の時代にもバトンを渡しているのだ。

 少しくたびれた椅子。カウンターも齢を重ねた。けれど、きちんと手入れされ、余計な掲示物がないない店内は清々しい。こういう店は、喰わせる。間違いない。

 ボクが子どもの頃、つまりは昭和四十年代の初めごろ、こういうラーメンを喰った・・・ような気がする。半世紀以上も昔の記憶はとうに奥に仕舞われているから。けれど、舌の記憶は、脳に刻まれているのだろう、ああ、こういうラーメンを喰ったよな、子どものころ、母親と。喰って暫くすると腹が減り、何かないかと親にせがんだ。するとこう言われた。さっきのラーメンのスープを飲まなかったからだよ。

 あの頃に比べて、ボクは食べられる量は減ってしまったのか。否。そんなはずはない。けれど、意外と腹に溜まる。そうか、ワンタンだな。澱粉と肉は腹に溜まるさ。

 出来るなら、絹さやの代わりにほうれん草にしてほしい。海苔とナルトも欲しいところだ。それでも不満なんぞはありはしない。

 寡黙な高齢の親父。愛想の良いオカミ。画に書いたような町場の中華店だ。けれど、御子息であろうか、厨房には二人おいでだ。二人で鍋と炎と対面しながら料理を作る。手際よく、黙々と注文をこなす。見ていて飽きも来ない。

 昭和の気取らないラーメンを無性に、思い切り食べたくなったら此処に来るとしよう。創業は1975年頃だそうだから、まだまだ、45年ほどである。あと5年、いや10年、15年・・・本八幡の駅からかなり歩く住宅街の一画、文字通りに佇むようなこの店に、懐かしいラーメンを向いたくなったら、また来よう。ご馳走様。

 

 さて、ここから、【淺草來々軒にまつわる八つの物語 其ノ弐】。弐回目は、「屋号」

 1911年、明治44年に創業した淺草六区、すし屋横丁にあった淺草來々軒。客が来る々、來々軒。ライライ、ライライ・・・どことなく中国風ではないか、簡単だから子どもだって覚えてくれる。店や家を構える意の“軒(のき)”を付けて、來々軒。こうして付いた屋号の來々軒。大正半ばには、一階も二階も客で溢れ、寄り付くことすら困難だったというし、朝起きてさあ浅草へ行こうとなったらまず來々軒の事を思い浮かべる人が多かったとの記録も残る、淺草來々軒。以来、その大繁盛にあやかって全国に広がった來々軒、という屋号の中華店。令和弐年になった現在、全国で120店以上が存在している。

 そのうち、淺草來々軒の系譜に連なる店で、今もなお「來々軒」を名乗る店は唯一つ。それは、祐天寺 祐天寺 来々軒 。1933(昭和8)年、淺草來々軒料理長が独立、大森にて店を開いたが一年後には現在地に移転している。ただ、現在は三代目で、レシピは淺草來々軒とは全く変えてしまっているという。2016年に一回だけ行ったが、なかなか立派な店で、町中華とは言えないような店だ。

 都内にはもう一店、系譜に連なるとみられる店がある。1946(昭和21)年創業の たちばな家 だ。以前、この店の公式サイには店の歴史が掲載されていたのだが、2020年3月末現在、公式サイトはクローズされてしまった。ボクがいった際、RDBに投稿した記録が残っているので記しておく。
『肉を卸していた中華そば店(浅草)来々軒の中国人経営者が中国に帰国することになり、肉店が店を買い取ることになった。その来々軒の店長として初代が送り込まれ、中国人の職人から中華そばを伝授された』。
 しかし、それに対応する來々軒側の記録は一切ない。もし、この店のサイトの記述されていたとおりとするなら、太平洋戦争開戦以降だろう。

 あとで触れるが、郡山の 手打ち中華 トクちゃんらーめん の公式サイトには、戦後にそれをうかがわせるような記述があるが、真偽は確かめようもない。いずれ、ブログでこの辺りを書きたいとは思っているのだが、さて、取材機会はあるだろうか。それにはやはり出版社などのスポンサーが必要だろうから、無理だろう・・・。店自体は東京のはずれ、檜原村にある。ロケーションだが、見事な場所にある。のんびりとしたいい場所なので観光がてら行く手もあろう。

 よく知られているだろうが、千葉には1968(昭和43)年創業の 中国料理 進来軒 がある。千葉都市モノレールに乗って出かけたことがあるが、まさに「町中華」である。
 この店の店主・宮葉 進氏は、淺草來々軒三代目店主の尾崎一郎氏が戦争から復員したのち、昭和29年に東京駅八重洲口界隈で來々軒を再開した4年後の昭和33年に就職した。昭和43年までの10年間、在籍したそうだ。戦時中、來々軒の尾崎家は、宮葉氏の住む幕張に疎開していたことからの縁という。このあたりの事情は「東京ノスタルジックラーメン」(山路力哉・著、幹書房。2008年6月刊)に詳しい。付け加えておくと、この本には宮葉氏のインタヴューが掲載されている。そこに(宮葉氏は)『料理の経験などない』とあるのだが、実はこの言葉、「天津丼の誕生の時期特定」に多少関りがある。詳しくはのち、ブログにて。
 
 なお、郡山の 手打ち中華 トクちゃんらーめん は、浅草生まれの店主が、この進来軒に通い詰め、店を開いたという。

 西に行くと、尼崎 大貫 本店 がある。店の公式サイトでは、大寛の創業者が來々軒の味が忘れられずに1912(大正元)年に開業した、とある。なので、直接の関係はない。ただ、そこにはこうも書かれている『神戸外国人居留地初の中華料理店「杏香楼」で中国人シェフの周氏と出会った』。この「杏香楼」はかなりの著名店だったようで、大正時代、大学の会合などで利用されていたという記録が残っている。

 岐阜には 丸デブ 総本店 がある。創業は1917(大正6)年、屋台の引き売りから始まった。此方の店主は淺草來々軒で修業後に店を開いたという。もしそうなら、この店こそ、来々軒初代・尾崎貫一氏が作ったラーメンにもっとも近い位置にあると言っていい。祐天寺の来々軒はもう淺草來々軒のラーメンとは別物だし、進来軒は三代目の店、しかも浅草ではなく八重洲での勤務経験、であるからだ。ただ、丸デブで食べてみると分かるが、これは今でいう東京ラーメンとは到底言い難い。「中華的」な「日本蕎麦」か、あるいは「日本蕎麦的」な「中華そば」だ。

 この店の現店主(三代目)は、「東海Walker(WEB版)」のインタビューで、なぜ岐阜の人間が東京に行ったかわからいとしながらも、淺草來々軒で習った味を持ち帰った、と話しておいでだ。そして、今なお創業時と変わらず、品書きはラーメンとワンタンのみ。しかも、味は創業時代と一切変えていないという。

 さて。これは仮説だ。丸デブが、淺草來々軒の創業当時の味を知り、かつ同じレシピで今もそれと同じラーメンを提供しているなら。無論、その可能性は大いにある。


 淺草來々軒=今の東京ラーメンの元祖、と言う説も、まったく成り立たなくなる・・・のだが。(続く)

投稿(更新) | コメント (13) | このお店へのレビュー: 1件

コメント

こんな渋いお店が本八幡にあったとは🤔
それにしてもよくお調べになりましたね。
続きを楽しみにしております😊

NORTH | 2020年3月29日 11:01

こんにちは^^
いやぁ~ブルさんの取材、研究力は素晴らしいですね。
このレビューシリーズは後世に引き継がれて欲しいですね。
丸デブが来々軒の味を継いでいるとしたら
去年伺ったときに、臨休だったことが本当に悔やまれます。

mocopapa(S852) | 2020年3月29日 11:11

どもです。
後継者のいる町中華は仕事の振り分けとか見てると
面白いですよね😄
自分は町中華では定食派ですが(笑)

こんにちは。丸デブが来来軒で修行されたとは知りませんでした。日本蕎麦風に独自アレンジされて大繁盛ですね。

いたのーじ | 2020年3月29日 12:46

こんにちは!

益々の探求心と取材力に関心しております。。。
自分も一時「担々麺」の歴史を追求する為に2度も四川省へ参りましたが、
調べれば調べるほど日本での定説のいくつかに誤りがある事に気付きました。
「美味しんぼ」の情報等もかなりいんちきな物もあり、でもそれらが上辺
だけの情報に踊らされる今の世相の弱点ですね。足で稼いだ情報は揺るぎません!

4門 | 2020年3月29日 13:42

こんにちは
深く読ませていただきました。
丸デブのはかなり変わった味わいですよね。
むしろそれが基本だったんでしょうか。
こんな感じが日本のラーメンの源流なのかな…とここら辺までは想像出来てたのですが。
次の展開が気になります。

あらチャン(おにぎり兄) | 2020年3月29日 16:01

こんにちは~
材料費や人件費、食文化の変化などを考慮すれば、
もし100年前と同じ味を頂けたら、それは奇跡に近いでしょうか。

銀あんどプー | 2020年3月29日 17:01

ぶるさん
老舗の皮を食べるワンタン。こういうのを食べるとほっとしますよね。

まなけん | 2020年3月29日 19:41

こんばんは~
名前が面白いですね❗昔の食堂的な名前…
しかし、歴史が深く掲載され
殆ど、ラーメン図鑑になりそうな感じで(^-^)

あひる会長 | 2020年3月29日 20:07

こんばんは。
西支料理店て知らなかったですね~
丸デブ、BMはしてたんですが。
名古屋勤務時代に行っておきたかった。

kamepi- | 2020年3月29日 21:18

いいっすね。
絹サヤのビジュアル含め
そそられます。

YMK | 2020年3月30日 08:36

おはようございます😃

文献研究と探訪で稼いだ情報ですね。
西支料理店?初耳でしたよ。
昨年末に岐阜に行った時、丸デブも候補だったんですよね〜

としくん | 2020年3月30日 09:13

おはようございます
また読み直して、この回が1番の要な気がします。
やっぱり味や名前、志しを残しているお店が大切かなと。歴史に埋もれる事なく続いて行って欲しいです。

あらチャン(おにぎり兄) | 2022年8月26日 08:20